ロンドン・マークス&スペンサー店員の日記

純生のイギリス人を語ります。

スーパー店員は見た・その3

サービス残業。日本独自の労働文化、だと思いますよね。イギリスではどうなんでしょう、その辺り。現場を知る僕が解説を試みてみましょう。
この質問、いきなり答えを出してしまうと、実はイギリスでもサービス残業は存在します。しかもごく普通に。

スーパーのSainsbury’sを例にとりましょう。一番下の立場の店員が昇進して最初に就くのがTeam Leaderの役職です。時給にしてたったの70ペンス程度の昇給ですが、責任度が急に上がります。そして、それを規定の時間内でこなすのは無理ってもんでしょう、という世界に突入します。
担当セクションに課されたノルマ、例えば棚詰めが全て終わるまで帰れません。しかし何しろ下の者達は働きが悪く、しかも自分の終業時間が来たらぴったりに職場を去ります。片付けもせず。となると残った仕事はこのTeam Leaderかセクションマネージャーが残業してこなさなければなりません。それは日本での暗黙のプレッシャーと同じ原理です。

では、実際にどれだけの時間、無償で働いているのかというと、僕の直属のマネージャーだったジャマイカ系の「粋がり」オヤジ、スティーブンや、Team Leaderだったスロバキア出の「負けてたまるか」イバナ嬢は皆の一時間半前には出勤し、帰るのは僕らより大体2時間くらい後。つまり、11時間近く勤労していました。

僕はいつも平社員でしたが、この上司達への同情を禁じ得ず、いつも残って手伝っていました。だって、残された仕事の量が半端なくて、これをやって帰れという会社があまりにも非情な気がして。しかし、店長は更にそれを超える長時間労働をしていますから、店長を責める訳にもいきません。

結局、僕の上司二人にしてみれば、働きの悪い部下達のことが怨めしかったようで、時々Pubに誘われて飲みに行った時に愚痴をたくさん聞かされました。僕的には僕にそういう心情を話してくれたり、ビール飲みながら一緒に憤慨したり、悩んだり、というのが嬉しかったものです。

一方、僕の同僚達は僕がサービス残業することが理解できなかったようです。昇進を望んでいる訳でもなく、残業代が払われる訳でもなく。なのに、なぜ残るの?と。その心情は、いくら説明しても分かってもらえなかったですね。

という訳で、無償の長時間労働は日本だけの話というのは、事実ではありません。少なくともイギリスでは普通に存在します。恐らく他の英語圏でも同じような状況だと想像されます。

実は、日本人が良く言う、西欧ではこんな事はやらない、という主張。西洋人はあくまでプライベート最優先だ、という意見。あれを聞くたびに僕は、ドロドロになりながら勤労している、数多の名も無き普通のイギリス人達の事が思い浮かび、ちょっと腹立たしく思うのです。ましてや日本人独特の美学だという勘違い!困ったもんです。

スーパー店員は見た・その2

これはMarks & SpencerのKensington店、子供服売り場にいた時の事でした。まず、こんな中年の東洋人オヤジをこの売り場に配置した会社の意図に驚きましたが、それは恐らく、人種、性別、年齢差別の排除をモットーとする社風、世の中の風潮から来るものだったと思われます。

さて、ある日の事でした。ロンドンきってのお金持ち地域、Kensingtonに相応しい、いかにも裕福そうな白人の年配女性がガールズ、つまり女児の下着を探していました。しかし、お望みの品が見当たらないらしく、店員を探して辺りを見渡し、最初に僕と目が合いました。が、ところが、怪しい東洋人は助けにならないと思ったのでしょう、僕をさらっとスルーし、少し離れたところにいた白人の店員に声をお掛けになったのです。

しかし、それはマダムの失敗だったとすぐに判明します。何故かと言えば、その店員、イギリスの店員の名に恥じず、あっさりと、「今売り場に出ていないものは在庫にもないわさ」と告げるに留まったのです。確かにその答えに間違いはないのですが。。。

一方、マダムは納得がいきません。とは言え、先程、僕のお助けしますよムード満々の目を否定した手前、声を掛け辛いのでしょう、どうしたものか躊躇する羽目に。

ここで日本的サービスを身上にする僕の出番です。最初の店員がどこかに行ってしまったのを確認した上で、「確かに売り場にないものは在庫にもございませんが、他の店舗に電話して在庫を確認して差し上げましょうか」と伝えました。そしてマダムのお住まいをお伺いして、その最寄りの店、Chelsea店に電話確認。幸運にもそこにはお求めの品がお求めのサイズでありました。更に僕はお取り置きの予約をして差し上げ、あちらの店では僕の名前を告げるだけでOKという手配をしたのです。

あの気取っていたマダム、さすがにこれには感動され、大感謝なさいました。同時に反省もしたはずです。僕はと言えば、何とも清々しく、実は勝ち誇った気持ちがしていました。「見かけで判断してはダメですよ。中身を見るまで偏見は捨てて、広い視野を持ちましょうね」と。

スーパー店員は見た・その1

実はそろそろ、またしてもロンドンのスーパーマーケット界を去る事になりました。去ると言っても、これで6度のおいとまですから、またいつ舞い戻る巡り合わせになることやら、と思いつつ。今回は特に、しばらくイギリスを離れてスペインで暮らす算段になっている為、僕が愛するイギリスの、普通の人々を後にしなければならない、というのがまた格別な思いにさせてくれます。

皮肉屋で、いつも物事を斜めから見て、ブラックジョーク満載のお下劣なイギリス人。そんな人々に敬意を表して(?)「家政婦は見た」よろしく、「スーパー店員は見た」シリーズをお届けしようと思います。

えっと、あれは去年の冬、Sainsbury’sで働いた時の事だったと思います。ある夜、カリビアン系のごく普通のオッサンに呼び止められ、尋ねられました。「エビ天ぷらは今日はどうしたんだい」。切羽詰まった顔色です。「申し訳ございません、本日は売れ切れてしまいまして。。。」と答えたところ、「えーーー?!今日は絶対エビ天が食いたかったんだよーーー!」。

その嘆きようが尋常でなかったので、僕としては激しい苦情の嵐がそれに続くのでは、と身構えしました。が、そのオッサン、「今日はついてないなぁ・・・」と悲しい顔するのみ。僕はその姿が愛おしく感じられてしまって、ついニッコリしてしちゃったのです。

しかし、そのニッコリの意味が向こうに通じる筈はありません。だって、僕が日本人で、だからこそ、この国の一般スーパーでエビ天の総菜が売られていて、それが売れ切れになる程人気な上に、こんなコテコテにカリビアンなオッサンがここまで嘆くその姿、それが微笑ましさを極める光景だと感嘆している、なんて分からないでしょう。オッサンは僕に怪訝な目線を投げかけながら、トボトボと店を後になさいました。

さて、これは何ともLondonを象徴するような、そしてなぜ僕がLondonを愛して止まないのか、という、まさにそれを体現する出来事でした。

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Sainsbury'sの小型コンビニ店舗

 ヨーロッパ大陸側のスーパーの品揃えの貧しさ、本当に悲しくなります。君たちには好奇心も冒険心もないのか!と。パリでマークス&スペンサーが人気なのもうなずけます。小型のコンビニ型店舗でさえ醤油や豆腐が買えますから、ここロンドンでは。大型店舗では更に充実の品揃えです。スペインでもSainsbury’sとM&Sが恋しい日々になる事でしょう、きっと。イギリスのスーパーに幸あれ!

イギリスの自信

つい先日、スペイン、バルセロナを訪れる機会がありました。尤も、生粋のカタルーニャ人であればバルセロナはスペインではないのですが、その話はまた別の機会に。
さて、今回バルセロナで感じた事というよりは、かつての友人達、そしてロンドンで知り合ったスペインの人々から総合的に感じ取った事として、常々思っていた事があるので、今回はそれについて少々。これはイギリスとの対比、引いては日本の事へと、僕の中ではこじつけられてしまうのですが。

まず、僕が思うスペインの人々の傾向として、ほんのちょっぴりでも自国の批判をされたと思うと、過激に反応し、熱のこもった弁護を始めるところがあるようです。こちらは批判した訳ではなかったのに、妙なところに反応されてしまい、困った事が何度もあります。例えば、スペインで仕事探しに苦労していた時に、「コネがないからねー」と、それはどの国でもそういうものだというつもりで言ったのに、聞き手はそれを、スペイン社会が非近代的だと批判された気になったらしく、スペインでもコネなんて関係なしに純粋に実力勝負だよ、との反応が。。。

更に、イギリスで知り合ったスペイン人達の特徴として良く出くわすのは、やたらとイギリスやロンドンの悪口を言う、という点。ケチをつけたがるのです、何かにつけ。これは、フランス人、ドイツ人、イタリア人にはあまり見られない傾向で、何故だろうと長く思っていました。マドリッドに住む友人がロンドンに来た時に案内して歩いた時も正にその通りで、とにかく、ロンドンのあら探しをするので閉口しました。その友人はスペインの全国紙で旅行記事を書くジャーナリストなのに、です。しかも、腹の底では「ロンドンはすごいな」と思っているのが見え見えで。。。

もう一つ、不思議な現象は、ロンドンで知り合ったスペインの人達に、僕がかつて2年スペインに住んでいたよ、とスペイン語で言っても、十中八九、英語で返事が返ってくるという事。それにもめげず、更にスペイン語で話し続けても、英語が返ってくるのです。その上、妙に気取った態度、と言うか、寡黙な北ヨーロッパ人の風情をまとおうとする人も少なくない。あたかも、「僕は君が知っている一般スペイン人とは違うよ」とでも言いたげに。

また、かつてスペインで僕の友人だった人達、教育の高い人達でしたが、がアルモドバルの映画を事ある毎にけなすのです。「アルモドバルが描くスペイン人像は本当のスペイン人とは違う」、「私らあんなに血の気が多くて馬鹿っぽくない」、「海外で誤解を招くじゃないか」等々。

この一連の事象を僕なりに解釈すると、つまりスペイン人には劣等感があるからなのだ、と結論付けられてしまいます。スペインは1975年までフランコ軍政の独裁政権下にあったので、国が開かれて安定したのは比較的最近の事。民主化されてからECヨーロッパ共同体に加入する時、イギリスでは反対する声があったそうでもあります。そういう歴史がこの劣等感の源なのかな、と察する事が出来ますが、それならば、もっと自信を持てよ、と僕は強く提言したい。

所変わって、イギリス。この国の人々の場合、そういう部分はどうなのだろうか、と。答えは簡単です。根っからの皮肉屋の精神も相まって、この国の人々は他国人の低次元な批判などには全く動じない、と言うか、無反応です。

むしろ、自分達の滑稽なところ、妙なところを笑い飛ばして面白がる土壌がある程です。BBCで近年人気だったLittle Britain (自分達で自分達をコケにして呼ぶLittle Englander=島国根性で器の小さいイングランド人、という英語表現から来ていると思われます)というコメディー番組では、この国の変なところや人々を風刺して笑い飛ばします。例えばhttps://www.youtube.com/watch?v=1pw8m_NTJ_0 (これはアメリカに舞台を移して作られた番外編で、アメリカとイギリスの違いがまた別な趣で面白い。こういうレセプショニスト、本当にいるのです、イギリスには!)

イギリスのこういうところは、世界の先陣を切って世の中の近代化に乗り出し、世界初、というものが山ほどあり、文化、アート、科学の分野でも世界に誇れるものが掃いて捨てるほどある、という揺らぎない自負、自信、余裕から来ているように思います。ロンドンパラリンピックの開会セレモニーにホーキンス博士が使えるという、あのネタの豊富さがあるのです。

と、こう言いつつ、僕はイギリスのそういうところを諸手を挙げて礼賛している訳ではないので、誤解なきよう。確かに、どっしりとした大人の振る舞いにも見えるのですが、その一方で、その自負から来る傲慢な行動が他国に多大な不幸をもたらした例が沢山あるわけですし。例えば、隣国のアイルランドへの蛮行、等。

最後に、では日本はどうなのか、となる訳ですが、実際、どうなのでしょうか。それを僕が語るのは多少気が引けるところですが、一つだけ、外から日本を見ていて思う事はあります。つまり、アジアの先頭で近代化を切り拓いて来たという自負があるのであれば、もう少し、どっしりと構えて、度量の広さを示しても良いのではないか、という事。外からの目を気にするべきところと、そうではないところとが逆の場合が少なくないようにも。

マレーシアの首相が日本に「自信を持て」と言ったとか言わないとか。それは、こういう事を仰りたいのだ、と僕は思います。決して、愛国精神や国粋主義、などというものを説いているわけではないのだ、と。

片想いの日本ファン達

ちょっと、ここでイギリスという国名の日本語表記について語っておこうと思います。と言うのも、イギリスというのは明らかにEnglish、つまりEnglandから来ていると思われるのですが、このEnglandというのは、かつての王国で、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドと共に現在の国、連合王国を構成しているに過ぎないからです。身近な例として、サッカーのワールドカップに出場するEnglandチームにはスコットランド人もウェールズ人も、そして北アイルランド人も入ることは出来ず、各々、独自のチームを結成しているという事実が挙げられるでしょう。


アメリカ人や近隣のヨーロッパ人でさえ、この国全体を指す言葉としてEnglandを使う間違いを犯します。それを思えば、遠い国日本でイギリスと呼ばれても仕方がないのかもしれませんが、長くここに住む僕としてはこの言葉を使う事に多少の後ろめたさを感じてしまいます。特に、かつてウェールズに住んだ事がありましたから、それを伝えるのに日本語だとイギリスのウェールズと言わざるを得ず、何ともトンチンカンな事になってしまいます。など、要らぬうんちくを語っておきながら、このブログでは便宜上、「グレートブリテン連合王国及び北部アイルランド」を指す言葉としてイギリスを使おうと思います。違和感を感じる方、お許しくださいませ。


さて、そのイギリスで最近僕が出会うイギリス人達の多くは、ごく普通の、労働者階級の人々です。つまり、今の職場の同僚という訳ですが、実はその中に思いの外たくさんの日本ファンが隠れています。というといかにも一般イギリス人の多数が日本に興味を持っているかのように響くかもしれませんが、それは違いますので、そこははっきりさせておきます。日本は、「極」東の国の一つ、オノヨーコの国です。


とは言え、かつては、日本に興味がある人というのは裕福で学も高めの人達がほとんどでした。しかし、最近はスーパーマーケットで働いているタイプの層にも熱烈的に、そして片想い的に日本を愛している人達がいるのです。


去年のクリスマスにSainsbury’sで働いた時、僕が日本人だと分かるとそれだけで感動し、毎日自分がどれだけ日本が好きなのか話してくれる同僚が三人いました。皆、この国の労働者階級どっぷりの若者達です。共通項は、アニメ。残念ながら僕は世代が上過ぎてその若者達が夢中の作品については全くの無知でしたが、彼らはとにかくアニメから学び取った日本語を沢山知っていて、僕を「様」付けで呼んでみたり、「弟!」と呼んでみたり、はたまた「好きー」と叫んだと思えば、「これで終わりだ」と言ってみせたり、等々。終いには休憩時間に日本のアニメを持ち込んで、テレビに接続して僕と一緒に見ては喜ぶものだから、休憩時間はゆっくりしたいわい、と思いつつ、謹んでお相手をする日々でした。アニメに興味が無い同僚達が「またCartoonなんか見て。。。」と小馬鹿にすると、「日本のアニメはカートゥーンじゃねえよ、奥が深いんだよ」と言い返す、そういう奴らでした。今働いているM&Sでも勿論(?)二名、既に日本訪問済みの大日本ファンがいて、これまた、仕事中に日本のお話を得意げに聞かせてくれます。


と、まあ、こうした現象は勿論嬉しいものなのですが、同時に僕としては少し申し訳ない気もしているのです。「片想い的に」と前述しましたが、そういう意味で、です。


もっと言えば、日本政府がロンドンで展開している日本文化紹介の対象が、インテリや裕福な層に絞っているケースが多いように思えるからです。最近ロンドンの富裕層地域KensingtonにオープンしたJapan House(https://www.japanhouselondon.uk/)なるものがその最たるものでしょうか。(Japan House訪問記は後日別途したためようと思います。)


勿論、それもあって然るべきですし、そうした日本ブランドを守るという趣旨も分かります。しかし、それだけでは、何とも寂しいと。そもそもそういった層には経済力があり、自力で自身の興味を追及できるでしょうし、既に良く知ってもいるでしょう。日本人との接点がある人も少なくはないはずです。


その一方で、今まで生の日本人、普通に目線が合った話ができる日本人と会う機会が皆無で、だからこんな僕でも出会って大はしゃぎするような日本ファン達もいます。そういう人達の気持ちをおざなりにしたままの日本の政府が残念なのです。尤も、気付いていないだけかもしれませんが、それもまた、勉強不足だと言わざるを得ないでしょう。


日本で開催されたサッカーのワールドカップ、皆さま憶えておいででしょうか。あの後日談としてこちらで聞かれたのは、「見ず知らずの日本のサッカーファン達と夜な夜な一緒に酔っ払って盛り上がった事、それがすごく楽しかった~!」という声。そういう事なんです。尤も、そういうナチュラルな交流に国がズカズカと足を踏み込んで欲しいとも思いませんが、少なくともそれを理解した上で日本を売り込んで頂けないものかと。そういう粋な国であって欲しいと、僕は願うのです。

階級社会イギリス

僕が最初にスーパーマーケットで働いたのは Sainsbury’s(https://www.sainsburys.co.uk/)というイギリス最古のチェーンで、かれこれ10年くらい前の事になります。参考までにこれは→ https://www.youtube.com/watch?v=NWF2JBb1bvM 、そのセインズバリーの数年前のクリスマス用テレビコマーシャル。クリスマスの日に戦争を休止して、戦場のイギリス軍人とドイツ軍人がサッカーに興じた、という史実に題材を求めたもので、クリスマスには誰でもが好意の交換を行うものなのだ、というメッセージを映像化したものです。かなりセンチメンタルですが、当時大ウケしました。


話を元に戻します。実は、この国では「君は何人なの?」と聞くのは無作法で、スーパーで働き始めてもイギリス人にずばりと尋ねられた事は一度もありません。それでも僕が日本人だと知れ渡るのはごく自然なことで、それが知れた時の反応の一つに「何でGDP世界2位(今でも2位だと思っている人が多いです)の国からわざわざイギリスに来てスーパーなんぞで働いているの?」というものがあります。更には「何でそんなに一生懸命に働くの?こんな仕事なのに」とも。日本であればごく普通と思われる働き方をするだけで、この国では地域統括マネージャーにまで噂が届くほど有名な働き者になってしまいます。これ、自慢ではないので、誤解なきようお願いします。


さて、僕はこの手の質問に対し、「日本にもスーパーマーケットがあって、当然そこで働いている人達がいるよ」と言います。そして、「日本では職種に付けられるステイタス的なレッテルはこの国ほど上下が激しくなくて、就いている仕事が何であれ、皆最善を尽くすんだよ」的な事を言います。尤も、この説明で納得した人はまだ一人もいませんが。


ところで、こうした対話に関連し僕が思い出す話が一つあります。それは僕がこの国に来たばかりの頃の事でした。


当時通っていた英語学校で、ある日の授業の教材がAlternative education、日本語で言えば既存の型にはまらない先進的な教育理念、とでも言えるでしょうか、それをテーマにしていたのです。そして、論議の対象とされたのが、そういった型破りな学校の創設者で校長を務める人の発言でした。曰く、「既存の教育方法に沿って子供たちを教育すると、スーパーマーケットのレジ係で一生を終えるような人生へ導くだけだ」と。


主にヨーロッパからの学生達はもっともらしい事を語ります。皆その校長先生の考えに賛同なのです。しかし、僕にはどうしても許せない部分がありました。つまり、「でも、誰かがスーパーのレジ係をやらないといけないでしょう。どの仕事も世の中に必要で、貴賤はなく、問題はそれをやる人が自尊心をもって一生懸命に従事するかどうだ。そして、この校長先生は教育者としてそれを教えるのが正しい姿のはずだ」と。

 

これにつられて更に思い出すのは、遠い昔、小学校で受けた道徳の授業です。例えば、次のようなものが今でも印象深く思い出されます。


教科書に出てきたその話の舞台は或る小学校で、お父さんがトイレの汚物汲み取り業をしている女の子が出てきます。ある日その女の子のお父さんが学校に汲み取りの仕事でやってきます。女の子はそれが恥ずかしくて堪らず、飛び出してしまいます。授業では、これについてどう思うか話し合いを持ちました。色々な意見が出ましたが、先生は「この女の子が恥ずかしく思うのは間違っている。職業に上下はなく、どの仕事も同じく大切だから、常に誇りを持つのが当然の姿勢だ」という結論に導いたのです。

 

今となっては古臭く、うがった見方をすれば、一億総中流の妄想を植え付ける洗脳授業だったのかもしれません。しかし、僕はこれは日本の教育の素晴らしい特徴の一つだと思います。勿論、国による思想統制に利用される懸念が常にありますから、注意が必要でもありますが。因みに、この道徳教育の話を、英語学校での体験と合わせ、この国の上流に属する友人にしたところ、いたく感動し、日本の教育に最敬礼しました。


翻って、今のイギリス社会ですが、この国は未だに目に見えない階級に縛られています。スーパーで働くのは無教育な労働者階級がやる事だと、そういう考えをあからさまに態度に出すお客さんも少なくありません。就業する側も自分達は人生の敗者だと思っています。しかし、僕はこうしたこの国の普通の人々と一緒に働くのが楽しくて堪らないですし、勿論いつも一生懸命仕事に当たっています。全く独りよがりで、事によると思い上がりであったりもしますが、これが外国で暮らすという行為を全うする形の一つ(全てではなく)だと信じながら。

多民族都市ロンドンが病みつきになる訳

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今日は前回からの流れで、ロンドンの多民族性をマークス&スペンサーを通して書き連ねようと思っていたところ、昨年6月のテロ攻撃で犯人に勇敢に立ち向い、亡くなってしまったスペイン人の両親に女王様が勲章を授与した、というニュースが耳に届きました。その勇者はロンドンの銀行に勤めていたスペイン人で、見ず知らずの女性が犯人達から無差別にナイフ攻撃を受けていた現場に出くわし、スケートボード一つで立ち向かい、彼自身も帰らぬ人となってしまったという、むごい事件でした。


さて、あの事件当時改めて思い知らされたのが、ロンドンの人種のるつぼ度のすごさでした。被害者にとどまらず、体を張ってテロリストに立ち向かった人々にも外国出身の市民が沢山いたのです。彼らの「僕はイギリス人じゃないけど、ロンドンは僕の街だから」という心意気に僕も大いに賛成したものです。


ところで、これと同じような声をどこかで聞いたな、とあの時思いました。。。それはロンドンオリンピックの時のことで、僕は実はボランティアで参加していました。ボランティアと言っても2種類あり、Games Makerという格が上の人達とその下のLondon Ambassador。僕はAmbassadorの方で、トラファルガー広場に設置されたインフォメーション・デスクで海外からの訪問者のご案内係り。


実は、このボランティアに限らず、オープニング・セレモニーに出ていた人達の中にも沢山の外国人がいました。(因みにあのセレモニー、北京のような完璧を目指すのではなく、ごく普通の人々が気持ちを込めてやる事にロンドンらしい意味があるんだ、という趣旨だったようです。)そうした外国人参加者達からよく聞かれたのが、「僕はイギリス人じゃないけど、ロンドンは僕の街で、この心の広い街から沢山のものを受け取って来たらから恩返しがしたくて」という意見だったのです。僕も勿論そういう気持ちでいましたから、皆の気持ちがとても心地良かったのを憶えています。


ここで、もう一度テロの話へ。10年くらい前に初めてマークス&スペンサーで働いた時にイラン人の同僚がいて、「日本人は勇敢だ、尊敬する」と輝く瞳で言われた事があり、テロがあるたびにそれを思い出すのです。なぜ彼がそう思うのか、というと、「だって、日本人のカミカゼ攻撃は自爆テロの先駆だろ」って。うーん、ですよね。確かに自爆ではありますが、一緒にして良いのかどうか。根本は同じでしょうか?


面白いことに、その答えの一つを、後年Sainsbury’s というスーパーで働いた時のアフガニスタン人の同僚が出しました。その時、休憩時間で一緒にテレビを見ていたところ、カブールの高級ホテルで発生した爆破テロのニュースが流れました。そこで彼はまず「あれ俺の街~」とさらっと言い、更に続けて「俺が怖いと思うのは日本人だけだよ。日本人はカミカゼをやっただろ」と。またその話か、と思いつつ「そうだよね、あれは自爆テロの元祖だよね」と言ったところ、彼にたしなめられたのです。「馬鹿言うな、カミカゼとあんな嘘のイスラムに洗脳された下等な奴らの自爆テロを一緒にするな。日本のカミカゼは教養のある日本人がアメリカの馬鹿者達から国を守る為にやった崇高なものだ」と。これはこれで、うーんと唸ってしまいましたが、如何でしょうか。


。。。等々、ロンドンにいるとこのような場面に遭遇する事になります。センチメンタルな言い方をすれば「世界市民のひとりであると実感できる街、それがロンドン」なのですが、その本当の意味は、違う文化背景の人々と考えや思いを共有し合うところにあるのだろうと思っています。そして、これがあるからロンドンは止められない、のです。